インフォームド・コンセントという言葉があります。あれは日本語にしにくくて、「説明と同意」という訳語がおかしいという指摘もあります。でも、「情報を提供された上での同意」という直訳もちょっとなあ、という感じです。インフォームド・コンセントというカタカナもイマイチです。 いずれにしても、ぼくはこのインフォームド・コンセント、そろそろ賞味期限が来ちゃったんじゃないかと思っています。 昭和の昔、医者が今よりもずっとずっと威張ってふんぞり返っていたとき。医者は患者に何も説明することはなく、「だまって言うことを聞け」と言っていました。 今の日本の医療はいろいろ問題抱えていますが、昔よりもずっとずっとましになっています。「昔の医療はよかった」と言ってる人は、セピア色の美しい記憶だけが残っているか、記憶のすり替えが起きているか、あるいはボケちゃっているだけなんです。今の日本の医療のほうが、知的にも技術的にも、そしてヒューマンな意味でも、ずっとレベルが高いです。 で、そういう「いけてなかった」昭和の時代においては、インフォームド・コンセントという概念はとてもよいカウンターアタックでした。旧態然とした価値観に水平チョップ。秩序のない現代にドロップキック。これってJASRACにお金払う必要あるのかしら。 でも、インフォームド・コンセントの先輩、アメリカがそうであったように、インフォームド・コンセントは形骸化していきます。要するに、説明して同意とっときゃ良いんだろ。それで、免責。主体は患者。責任は取りませんよ、というわけです。 もちろん、こういうことは公式には絶対に認められません。人種差別をしている人が絶対に自分が差別者であることを公に認めないのと同じように。 形式的には、インフォームド・コンセントは患者の自己決定権を十全に尊重する崇高な仕組みです。でも、その実態は医者の責任逃れなのです。アメリカも巨大な「本音と建前」の国なのです。もちろん、日本もそうです。
via georgebest1969.typepad.jp